町おこし 文化

【能楽】いざ、古の世界へ

「寂れた農村」

その言葉にぴったり当てはまる場所は今の日本中いくらでもあるかと思います。
僕の故郷、山形県鶴岡市黒川地区もその御多分にもれず、人よりも、むしろ静けさと夜の漆黒の闇の方が主役のような所です。
一般的なイメージ通りの農村である黒川ですが、その裏には沸るような熱気を絶やすことなく約600年に渡り受け継がれてきた伝統芸能「黒川能」があります。
今日は、とんでもない熱狂と共に受け継がれてきた黒川能について、身近に感じながら育った僕の私見たっぷりでお話します。

もう誰もわからない

 今からおよそ600年前、京都から黒川の地に能楽が伝えられました。その経緯には諸説あり、もはや伝説と呼んだほうがいいものもあります。今となってその由来は定かではないのです。
兎に角、黒川の人々に能楽は受け入れられ、住民によって春日神社を境にして、上座と下座の2つの能座が形成され、コミュニティの結束を強固にするために、黒川能は必要不可欠なものとなっていきました。


黒川能は、エンターテイメント、つまり商売のためではなく、あくまでも黒川の神に捧げる神事能として執り行われているのが非常に興味深い点です。
そのため能楽五流では観客受けが良くない理由からとうの昔に上演されなくなった演目が、黒川でも今も行われていたりもします。
黒川には普段は別のしながら祭事の際は能・狂言の役者を務める、所謂「兼業役者」が数多く暮らしています。その中には僕の友人もおりまして、最後に上演されたのがもう何百年も前で、尚且つ口伝で伝えられてきた演目をやる際などは、何が正解で、何が間違いなのか正直なところわからないこともあるそうです。


その他にも神事能だからこその面白い点があります。黒川能では能の演目の前後に、謡・囃子方が一見して観客に一礼するような動きをするのですが、実はそのお辞儀は観客に向けてではなく、黒川の神に向けてのものです。ですのでその間に陣取っている観客は眼中に入っていないことになります。目の前で深々とお辞儀をされれば、つい拍手をしてしまいますが、厳密にはお辞儀も拍手もする必要はないとのことです。

ほぼタイムスリップ

 基本的に黒川能が執り行われる場所は、黒川にある春日神社の社殿内の能舞台です。能舞台が屋外にある神社や寺は全国に多数ありますが、社殿内に能舞台があるのは極めて稀です。


尚且つ、黒川には上座・下座の2つの能座があることから、幕(楽屋)から能舞台に通じる橋掛かりは左右に一つづつあります。そのため、通常の能舞台は舞台に向かって左側だけに幕と橋掛かりがありますが、春日神社以外に橋掛かりが2つあるというわけです。そんな特殊な能舞台を持つ神社は春日神社他に無いそうです。
建築としても貴重な春日神社ですが、そこで能が舞われる際の雰囲気は言葉に表現し難いものがあります。薄暗い燈の中で酒を呑みながら、囃子と謡に耳を傾け、舞方の一挙手一投足をじっくり眺めていると、なんだか自然と気が遠くなり、朦朧とする意識の中でぼんやりと浮かぶ光景に「自分は今起きているのか、寝ているのか」と、現実と夢の境目がわからなくなることがあります。
時を忘れて、自分の心と向き合う準備が整えてくれる力が能にはあるように思います。だからこそ、維持することがどんなに大変でも黒川能は今日まで受け継がれ、黒川の人々は健やかに生きているのでしょう。


商用ではない理由で能を重んじてきたのは、何も黒川に限ったことではありません。日本では古来より答えのない課題に答えを見出す責任を負った時の権力者にも嗜まれてきました。
織田信長や豊臣秀吉は自ら熱心に舞の稽古を積み、その後徳川の世になってからは能は武士の教養として必修科目となりました。
これは何も昔のことだから通用するというわけではなく、変化の大きく速い現代でこそ、能の世界観は我々の生活の中に必要なのだと思います。

 黒川の人々の生活は伝統を重んじるため、ともすれば時代遅れの古い生き方とも言えます。しかし、だからこそ現在を相対的に見る視点を持ち得るのだとも思います。常に今のことを追い求めているばかりでは、本当の意味で今に集中することはできないからです。そのジレンマに陥らないためには、長い間受け継がれきた事実である歴史と伝統が必要なのだと思います。

古すぎて古くならない

 僕は幼い頃から能や狂言が身近にある環境で育ってきました。自分が役者にはならないものの、役者である友人と話したり、祭りで実際に舞を観たりと古の体験が積んでいく中で、能のいったい何が良いのかということがじんわりと身体に染み込んできたのだと思います。
子供の頃は酒の美味さがわからなかったのと同じように、文化の良さが実感できるようになるまでも時間と忍耐を要するのでしょう。そう簡単には感じられないものだから、感じ始めてくるとそう簡単にその感覚はなくなりません。

 先日も黒川能のイベント「蝋燭能(ろうそくのう)」があり、久しぶりに春日神社で能・狂言を鑑賞しましたが、その世界観には本当に素晴らしいものがあると改めて実感しました。
おかげさまでその日の反省会では呑みすぎて次の日えらい目にあいましたが、それも含めて黒川のことかと思います。

 最近よく思うのですが、能楽のように時代を超えて尚輝きを増していく日本文化は、通常表立って目に見えません。
しかし、見えづらいからといってやり過ごしていては、日本で暮らす上での本質には決して触れることができないのではないでしょう。正直なところ能の1時間以上に渡る演目をじっくり観るには、ある程度の知識と忍耐を必要とします。
つまり、面白がりづらいのです。それが面倒だと思う方も今の世の中多いかもしれませんが、そこを面白がれるようになった時に自分の中の何かが気付くはずです。

 僕も能楽についてまだまだ知らないことだらけですので、日々学んでいきたいと思います。現代ではなかなか味わえない世界観に興味がございましたら、是非一度黒川へ足をお運びください。それだけの価値はあると思います。

それではまた~

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