煎茶道 文化

すっ飛ばせない作法

日常生活の中には仕事や家庭、遊びに至るまで、滞りなく物事が進んでいくために様々なルールがあります。
ことに日本の文化、伝統と呼ばれるものであれば作法やしきたりを守ることを厳しく言われます。そういったものは堅苦しく、今の時代にそぐわないといつの世も言われ続けてきたようですが、不思議なことに今日まで絶やさず受け継がれてきたものが数多くあります。
それら全てを身をもって学ぶことはなかなか難しいようですので、煎茶道を学ぶ中でなるほどだから型が大切なのかと腑に落ちたことを今日はお話ししてみようかと思います。

必要な失敗

抹茶(茶の湯)のことはよくわかりませんが、煎茶道では約30ある各流派にそれぞれのお手前、つまりお茶の淹れ方があります。
お手前ごとに使う道具、その配置など厳格に決められており、そう簡単には覚えられないような手順となっています。当然のことながら失敗を重ね、その都度先生に指導を受けながらじんわりと身体でお手前を覚えていきます。
最初は頭で確認しながらでないと次に何をするのか解っていなかったものが、気がつくと何も考えなくても無意識にできている時があります。でもできたからといっても全く完了ではなく、より自然に振る舞うためには改善すべき点が山積しており、稽古を積むことで少しずつ所作が洗練されていくというのがお茶の面白いところなんだなぁと最近ようやく実感してきました。

意識を捨てていく

煎茶を日本に伝えたのは、禅宗の一派中国黄檗宗の高明な僧侶隠元和尚と言われております。煎茶だけではなく、彼の名前をとったインゲン豆や胡麻豆腐なども中国から日本に伝えております。
余談ですが、僕の地元山形県鶴岡市では、春の郷土料理に胡麻豆腐を用いた餡かけがあるのですが、隠元和尚がいなかったら餡かけは随分淋しい料理になっていたかもしれませんので、本当にありがたいです。
少々話が横道に逸れてしまいましたね。
まぁ要するに煎茶道も禅の影響を色濃く受けているのですが、禅とは何か?ということを僕はまだよくわからずにいます。ということで、その疑問の答えを導き出すヒントをくれそうな鈴木大拙さんの著書「禅とは何か」を読んでみました。

この本は、禅の入門書として長年に渡って日本国内外を問わず支持されているというだけあり、わかりやすくもありながら、読んでるうちに煙に巻かれるようになんのことがさっぱり解らなくなる所もあり、一度読んだだけでは到底理解できようがない思想が禅にはあることを教えてくれる名著です。
現時点で僕が禅についておぼろげながらわかり始めたことは、禅とは、心のくもりを取り去っていく訓練であるということです。

例えるなら、川面に移る月は本物の月ではないにしろ淀みなく流れているために、本来の月の姿をそのまま移すことができます。

でも川の流れが滞っていて水が濁っていたとしたら、本来の月の姿を移すことができません。僕らの心もそれと同じことなんだと思います。本質を見るためには心の澱みや曇りをきれいに取り除く必要があります。
しかし、情報の洪水に押し寄せられている現代人には、それがなかなか難しいわけです。だからこそ、意識して邪念を捨てていく訓練が必要となってくるわけで、煎茶道の事細かに決められたお手前がその訓練にあたるというわけです。
お手前を身につけるまでは、次の所作を頭で考えてお茶を淹れていきます。でも、何回も稽古を重ねるうちにだんだんとお手前を身体で覚えてきます。
そうなると頭の中は空っぽになって、ただ目の前のお茶をいかに美味しく淹れるかということだけに集中していきます。それが自分の心と向き合う準備が整った状態なんだと思います。
3年前に入門した時は、稽古の後に妙に晴れ晴れとした気持ちになっている理由がさっぱりわかりませんでした。俗世界の喧騒から最も離れた世界に身を置く時間を設けることは国や宗教を問わず、全人類におすすめしたいくらいです。

それほどまでに日本の茶道の世界観は研ぎ澄まされています。

師匠は必要

頭で考えなくてもある程度お手前の手順を覚えると、今度は心と向き合う準備が整うと先ほど申し上げましたが、まずは身体で覚えるまでの稽古が必要なわけです。その工程をすっ飛ばしていきなり自分の心と向き合う境地に至れる方はなかなかいらっしゃらないでしょう。

だからこそ、型が身につくまで指導してくれる師匠(先生)が必要なのです。

何年か前にホリエモンが、寿司屋の修行は無駄、腕があるならさっさと自分の店を出した方がいいなんていう無責任にも程があることを言っていましたが、それでうまくいく人はほとんどいないでしょう。師匠について学ぶ期間に得られるものは何もスキルだけではないはずです。
普段からのお客さんへの接し方や、問題に直面した際の師匠の振る舞い、そういったものは師匠がいなければ間近に見ることは叶いません。
いかに空気を作るかというのは、何も伝統文化や職人の世界の話だけではなく、多くの方の生活の中で問われるテーマだと思います。
その型が出来上がっていないのに、突飛なことをすればそれはただの「型無し」になってしまいます。だからこそ煎茶道では、お手前の所作が事細かに決められており、異常なほどそれを重んじるのだと思います。弟子を指導している師匠を見るのもまた稽古の内なのかもしれません。
このような非常に時間のかかる工程を経て初めて一人の人間の精神は成熟していくのでしょう。

人間は自分達が思っているほど強くなどありません。だからこそ、いつも不要なものにいたずらに心をかき乱されては、健やかに生きていくことは難しいです。
茶道は人の心の曇りを取り払ってくれるくれます。今日のお話を聞いて少しでも茶道に興味が湧いたという方がいらっしゃいましたら幸いです。

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