煎茶道

不立文字

こんにちは、ナオヒロです。

一昨日に初めてのお茶会を終えて昨日は長らく感じてこなかったようなとんでもない疲労感に襲われておりました。昨晩ゆっくり休んでだいぶ疲れが抜けましたが素晴らしい文化を目の前にして出た知恵熱的な身体の反応だったのかもしれません。

さて今回は、煎茶道を学んでいる中で発見した禅との関連について紹介してみようと思います。

マニュアルなんてありませんでした

煎茶道には、お手前と呼ばれるお茶の入れ方がいくつもあります。お手前によって使う道具も違えば、お茶を入れる手順や茶葉に至るまで多種多様です。

僕が煎茶道を始めた頃は本当に覚えるのに苦労しまして、お手前のマニュアルがあればもっと簡単に覚えられるのにな〜と何度も思ったものです。しかし、マニュアルのようなものは一切ありません。それだけではなく、稽古の際に道具の配置などを記録するためにお手前の写真を撮ることも良しとされていません。

お手前を覚えるには、先生の前で実際にお茶を淹れて一つ一つの手順を間違い、訂正されながら身体で覚えていきます。現代人の感覚からすると、そんなの非効率で合理的でないと感じるかもしれません。実際僕も最初の頃はそう思っていました。

でもそうやって稽古を重ねていくうちに、だからこの手順で進めると所作が美しいのかとすごく納得できる瞬間があるのです。その瞬間が僕はたまらなく好きで煎茶道にどんどんハマっています。それってどんな瞬間だよと聞かれるとちょっと困るのですが、何というか...自然を限りなく模したような動きであり、且つお茶が美味しくなるように無駄なものが省かれている所作に気づくときとでも言えるかもしれません。今の僕にとっては言葉に何とも表し難いものです。

一筆もなし

そうして初伝(三段階あるうちの最初の段)の3つのお手前を約1年半かけて習得し、2人の先生にお許しをもらい、僕はお家元から初伝の免許を頂戴しました。煎茶道の道のりはまだまだ遥か彼方まで続いていますが、めちゃくちゃ嬉しかったです。

初伝の免許を受け取った日、稽古を終えてうちに帰ってから半紙に包まれた免許を見てみると、そこにはお家元の書と初伝の3つのお手前の写真が入っていました。それを見てこれが不立文字 (ふりゅうもんじ) ってこういうことなのかなと妙に納得しました。

不立文字というのは禅の言葉で、大昔の禅のお坊さんは自分の言葉を書物に書き記すことはなく、お釈迦様の頃から、基本的に口伝で教えが伝えられていたことから、経典を重要視することはなかったと言われております。しかしまあ口伝だけでは流石に無理ということで、禅のお坊さんたちもテキストとして経典はたくさん使うようになったのですが、それが最も大事というわけではないそうです。

そこが聖書が最も大事とされるキリスト教やユダヤ教徒はだいぶ違う点です。

煎茶道は元々、禅宗の一つである黄檗宗(おうばくしゅう)の隠元和尚によって日本に伝えられているので、禅の影響を色濃く受けているのです。なので師匠の立ち居振る舞い、もっと言えば師匠が見ているものを見て自分のものにしていくのが禅のスタンスです。師匠が見ているものは家元や始祖が見ているものであります。場所や時間を超えて、同じ体験をできるのが茶道始めとした日本文化の素晴らしいところだと思います。

近道などない

言ってみれば煎茶道のお手前は、ただお茶を淹れるということですが、その所作の中には本当にたくさんの工夫や思いが込められいます。

まだまだ初心者の僕ですが、日々の稽古とお茶会体験を通して垣間見えてきた煎茶道の魅力を一つ一つ紹介していければと思います。

それではまた〜

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