文化

【岡倉天心】お茶を世界に広めた人物

お茶ようございます♫

 今って、スタバのメニューに抹茶ラテがあったり、海外での煎茶人気の高まりなど、日本のお茶って海外でも結構親しまれてたりします。
 抹茶のあの鮮やかな緑色と絶妙な苦味と甘みのコンビネーション!煎茶のなんとも言えない落ち着く感じ、そういう点が人気なのはわかるんですけど...いつから外国に日本のお茶文化が知られるようになったかをご存知ですか?

 今回は日本のお茶の素晴らしさを初めて世界に紹介し、「日本美術の父」とも呼ばれる偉人
岡倉天心さんをを紹介します。

変わりゆく日本、そして爆誕

 岡倉天心(以下、天心)は、文久2(1864)年に福井藩士の父・岡倉覚右衛門(おかくらかんえもん)の次男として岡倉角蔵(おかくらかくぞう)は横浜に誕生します。
 ※ちなみに岡倉天心というのは雅号です、後に岡倉覚三と改名しています。
 

 天心の父・岡倉覚右衛門は、その商才を見込まれて福井藩が横浜に開いた商館「石川屋」(現・横浜開港記念会館)で貿易商として勤めていました。
 そのおかげで天心は幼少期から横浜に寄港した外国人と接することが多く、さらに語学に対して類まれな能力を持っていたことこともあり、6歳になる頃には英会話はネイティブ並みでした。
 会話だけではなく、原文のコナン・ドイルの小説を日本語に翻訳して近所の方々に読み聞かせをしていたというから驚きです。

突然の母との別れ

 天心が9歳になった頃、妹・てふを出産した母・このが産褥熱により亡くなってしまいます。このの葬儀は長延寺(現・オランダ領事館跡)で行われ、そのまま長延寺に預けれるました。そこで漢籍を学び、アメリカ人宣教師ジェームズ・バラが開いた塾で英語もみっちり学び、後の世界的な活躍の基盤を築くことになります。

 12歳になる頃、父が東京で旅館を営むこととなったため、一家は上京、超優秀であった天心は14歳で東京開成学校(後の東京大学)へ入学を果たします。14歳といえば現代では中学2年生...しかも当時は今よりもはるかに狭き門であった国の最高学府に学費を支給される給費生(きゅうひせい)待遇での入学...この辺りがいかに天心がずば抜けた頭脳の持ち主だったかが伺えますね...笑

恩師との出会い

 天心は東京大学で彼のキャリアにとって運命的な方との出会いを果たします。
 その人物とは、外国人教師として東京大学に招かれていたアメリカ出身の哲学者で東洋美術研究家の
アーネスト・フェノロサです。

アーネスト・フェノロサ


 フェノロサは早くから日本古美術の素晴らしさに目を付け、その保護にも尽力した人物です。幕末から明治に時代が移る過程で起こった廃仏毀釈の騒動の中で、フェノロサは多くの古美術品を保護しました。彼がいなければ現在では見ることができない日本固有の美術品も少なくないと言われるほどです。

 天心は英語が堪能だったこともあり、通訳や翻訳などでフェノロサの助手として各地をついて周りました。興味の赴くままに、英米文学をむさぼり読んでいた天心にとって大学時代は東西の美術、文化の両方を学ぶのにこの上ない環境だったのかもしれません。


 大学内でもかなり異色で破天荒な存在であった天心は在学中に18歳で基子(もとこ)と恋に落ち、その勢いで結婚します。この辺から恋大き男の片鱗がすでに顔を覗かせていたのかもしれません。

 その翌年に大学を卒業すると、文部省に就職すると、すでに長い付き合いのフェノロサとともに近畿地方の古美術調査に乗り出します。この目的は廃仏毀釈による破壊と、古美術の海外への流出を防ぐためにどこに何があるかを明確にすることでした。


 明治17(1884)年 、法隆寺夢殿(ほうりゅうじゆめどの)で、寺の僧侶が拒むのを説得して、約200年ぶりに秘仏の開帳を目にした際、「実に一生の最大事なり。光に描ける焔のごとき、ことに鮮明なり」という天心の驚きに満ちた言葉が残っています。

 聖徳太子の等身像とも言われる、救世観音菩薩立像(くせかんのんぼさつりゅうぞう)などのそれまで公になっていなかった膨大な宝物を調査し、ランク分けして国宝に指定する作業を、天心とフェノロサは協力して推し進めました。また、この調査に並行して日本美術史と、美術史学の研究も行われました。

 明治19(1886)年、文部省の美術取調委員としてフェノロサとアメリカ経由でヨーロッパを巡り、翌年帰国すると東京美術学校(東京藝術大学の前身)幹事を命じられます。同校の創設に奔走し、翌明にははれて開校、そして、明治23(1890)年には若干29歳で校長に就任しております。
 東京美術学校では後に日本を代表する画家として大成する横山 大観(よこやま たいかん)、下村観山(しもむらかんざん)、菱田春草(ひしだしゅんそう)らを輩出し、彼らは才能あふれる天心を崇拝し、後々まで行動を共にしました。

 学校運営と共に古美術調査の縁で、帝国博物館の美術部長も兼任します。また同時期に美術専門誌『国華』を創刊します。凝った印刷の豪華な雑誌に仕上げ、第1号には自ら円山 応挙(まるやま おうきょ)について執筆し、見た目も豪華な雑誌に仕上げました。小学校の先生の初任給が8円だった時代に1円というかなり強気の高価格で販売したことも世間を驚かせました。

このように順風満帆のキャリアを歩んでいた天心でしたが、挫折は突然やってきました。

意外な落とし穴

 天心の不倫関係が表沙汰になったのです。相手は過去には共に故美術品の調査を行い、上司でもある九鬼隆一の妻・九鬼初子(くきはつこ)...
 後に「美術学校騒動」と呼ばれたこの一連の出来事により、自身が開校に尽力した東京美術学校の校長および帝国博物館理事兼美術部長の辞任に追い込まれてしまいます。早くから才能を認められ、一気にエリート街道を駆け上がっていった天心でしたが、まさに人生は一寸先は闇ですね...

 ちなみにこの時の不倫騒動の相手である九鬼初子とは、東京美術学校を開校以前からすでに知り合いで、明治20(1887)年10月、欧米での美術視察を終えた天心はワシントンに滞在していた初子と合流し、日本に帰国する道中の船旅で深い仲となったようです。

 37歳にして職を全て失い、不倫騒動が原因で家庭は崩壊寸前、相手の九鬼初子は精神をわずらい天心は途方もない虚無感を味わったといいます。失意の天心でしたが教え子たちは彼を見捨てませんでした。東京美術学校で筆頭教授を務めていた橋本雅邦(はしもとがほう)や横山 大観(よこやま たいかん)らが学校を辞職し、天心について来てくれたのでした。

 これに奮起した天心は、日本美術院を創設します。資金調達から指導と精力的に活動し、ここで大観たちは後世に残る名作を多く生み出しました。

金がない、海外へ行こう

 気合いを入れ直して門出を切った天心率いる日本美術院でしたが、時が経つにつれて徐々に資金繰りに困るようになってきました。元々同じ場所に長く住むことが性に合わず転居を繰り返していた天心は、ある日突然インドへ旅を決めます。
 なぜインド行きを決めたのかは明らかになっておりませんが、人生における挫折、仏教者としてのインド訪問、美術史観の構築などが理由だったのでないかとされています。当の本人は既にお亡くなりになっているので想像するしかありませんね。笑


 何はともあれ、問題が山積みの日本美術院を任された者たちは溜まったものではなかったと思いますが、そんなことはお構いなしに「創設者」岡倉天心は日本を後にしたのでした。

 しかし、そんな破天荒というか無責任な旅に出たことで出版されたのが、『東洋の理想』です。
この本は、日本文化を知ることが世界の理解につながることを仏教や儒教、そして芸術と絡めてわかりやすく解説し、日本文化の魅力を改めて見直すことの重要さを解いている名著です。

 他にもインドを代表する詩人・画家であるラビンドラナート・タゴール(1861-1941)とカルカッタにて会っており、かなり気があったようで大の仲良しとなり、その後も親睦を深めています。
 少し余談にはなりますが、タゴールは教育者・思想家として有名な人物で、1913(大正2)年には、詩集『ギーターンジャリ』によりアジア人として初のノーベル文学賞を受賞しています。

 天心は、タゴールがカルカッタの郊外に少数の芸術家を集めたアトリエに感銘を受け、後の明治31年には日本美術院を茨城県五浦に移し、少数精鋭の美術教育を始めたことにも影響しています。こう見ると天心の突然決めたインド旅行は、日本の美術にとって欠かせない出来事だったのかもしれませんね。

茶の本

 1902年、アメリカ出身の日本美術研究家ウィリアム・ビゲローが来日します。
その際に天心がビゲローをもてなして親交を深め、このことがきっかけとなり、1904年にビゲローの紹介でボストン美術館の中国・日本美術部に迎えれることになります。

 その後はボストンと五浦との2拠点生活が始まり、その慌ただしい生活の中で天心の代表作「THE BOOK OF TEA (茶の本)」が執筆されました。
 1906年にニューヨークで英語で出版されたこの本は、後に日本語に訳され日本でも親しまれることになりました。

英語で出版された「THE BOOK OF TEA (茶の本)」

 茶の本の中で天心は、日本文化の真髄を知りたいのであれば、必ず茶道を知らなければならないと書き記しています。彼の仰るとおり、茶道には日本文化のあらゆる要素が盛り込まれています。
 茶会が行われる和室、そこには畳が敷かれ、花と書、お香で飾られた床の間があり、そうした目に見える日本特有の要素だけではなく、作法やお手前さんの所作の中にも日本の文化がぎっしりと詰まっています。まさに「日本文化の缶詰」と呼ぶにふさわしい茶道です。しかも、そこまで昇華された文化を「お茶を頂く」という日常生活の行為に落とし込んでいるのが、日本文化の末恐ろしいところです。

 世界中のあらゆる美術に精通していた天心は最終的にそのこと確信し、「今この時に全てをかけて生き切る」という茶道の精神世界を世界が共有することができるとしたら、不要な争いは劇的に少なくなると考えていたことも「茶の本」を読んでいると感じられます。だからこそ天心は、世界に対して日本のお茶文化を伝えようとしたのだと思います。

 「茶の本」によって日本のお茶文化は広く世界に知られるようになりました。しかし、残念ながら天心が望んだような争いの少ない世界は未だ実現されていません。この点が現代を生きる我々の大きな課題ですね。

今回は日本のお茶文化を初めて世界に伝えた岡倉天心の半生を紹介してみました。「茶の本」が読みたくなった!お茶が飲みたくなった!と思っていただけましたら幸いです♪

それではまた〜

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